経済学の理論だけを使って資本主義に関する基本的なことばを理解しようとすると、思考が行き詰まることがありませんか? そもそも経済学は大昔には思想だったと言われます。そこで哲学者の荒谷大輔さんとともに、経済を語る上で頻出することばを哲学の視点で掘り下げ、身近に引き寄せてとらえ直してみましょう。
text by Daisuke Araya
edit by Mari Matsubara
illustration by yunosuke
そもそも「お金とは?」
お金は、信頼と期待の結晶です。単なる紙切れを人が喜んで受け取ってくれるのは、この先も同じようにみんなが欲しがるだろうという期待があるからですね。コンビニでお金を出して、受け取ってくれないなんてことは、まずありえない。でもその期待には、何の根拠もありません。みながそう思っていると、みな思っているから価値をもつのです。これは、みな「確信している」と確信している入れ子状の構造になっているので、ちょっとのことでは崩れません。しかし、その構造が崩れることは、いつでも潜在的な可能性としてあるだけではなく、歴史上何度も経験されてきたことでもあったのでした。
とすると「資本とは?」
資本は、お金の期待にさらにお金が増える期待が掛け合わされています。お金を注ぎ込むことで、それを上回るお金が生み出されることが期待されるのです。その意味で資本は「期待の掛け算」によって成立しているものといえるでしょう。この掛け算された期待も、個人の主観的な予測のようなものではなく、他者と共有してはじめて成立するということが重要です。株の値段が上がったり下がったりするのは、まさに期待の共有の度合いが変化するからですね。人々の期待が膨れ上がることで、資本が増えていきます。社会全体で将来の成長が期待される環境ではじめて、投資がなされるわけです。
ところで「成長とは?」
成長とは、経済規模が大きくなることです。高度経済成長期には、労働者の賃上げが社会全体の消費量を底上げし、豊かな生活が実現しました。社会に希望が満ち、投資に利益が約束されていた時代です。個人も社会も将来に明るい希望を持てる環境が資本を呼び込み、さらなる経済成長が約束されました。しかし、経済規模が一定水準に達し、賃上げが消費増に結びつかなくなると、それ以上成長する道が簡単には見出だせなくなります。さらなる成長には「改革」が不可欠です。イノベーションとリストラです。全員の生活水準を上げていく道は途絶え、成長のために競争が求められる時代になりました。
よく耳にする「市場原理とは?」
自由な競争が公正な配分をもたらすというのが、経済学の基本思想です。頑張った人が多くもらい、頑張らなかった人は少なくなる。その公正を保証するものが、市場原理です。多くの人々が高いお金を払ってでも欲しいと思えるかどうかがそこで評価基準になります。つまり、みなの自発的判断を社会全体で総計した結果だから「公正」とみなされるわけです。経済の「民主主義」というべき理念がそこにあります。何しろ、誰にも強制されないなまの欲望がそこに反映していると考えられるのですから。実は、アダム・スミスの経済学は、市場原理による社会正義の設定を目指すものだったのです。
突き詰めるところ「経済とは?」
経済は、もともと神学にも関わる思想の言葉でした。経済という言葉が今でも「秩序」「調和」を意味するのはそのためです。人間がそれぞれ自由に自分の欲望に従って行動するのに結果として秩序が成り立つことを、アダム・スミスは「神の見えざる手」の働きと説明しました。どういうことでしょう?人間が自分の欲望に騙されることだとスミスはいいます。人は無意識のうちに欲望を操作されます。メディアや広告の影響を受け、人気なものを欲しくなります。自由はそこでは、操作される無意識のうわべの幻想にすぎません。経済とは、人々が騙されることで実現する秩序だとスミスは考えたのでした。
だったら「幸福とは?」
幸福とは何でしょうか。スミスが提唱した社会分業制の徹底によって、人々が短期的な視野で自分の利益を求める結果、全体として大きな経済発展が期待される社会が実現しました。しかし、このよく出来た社会思想は「正しさ」を長期的な視野で測ることが不得意です。気候変動や世代間格差など、長期的に問題になりうることは広く認識されていますが、われわれは現状、短期的な視野で利益を積み重ねる以外に社会を制御する方法をもたないのです。経済的な豊かさの追求が本当の意味での幸福といえるのか。ゼロからあらためて社会の成り立ちを考える哲学の出番もまた出てくるかもしれません。
※初出=プリント版 2020年1月1日号
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